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リュージュオルゴール〜マニュファクチュールの秘密
オルゴール:その技術の歴史(1796〜1813)
オルゴールの原点:ジュネーブからサンクロアヘ
彼らは、山間農業と職人仕事を兼業しました・・・
アントワーヌ・ファーブルは、オルゴールの父として知られています。
現在のオルゴールのムーブメントは、2世紀以上も前に生まれた伝統あるアイデアに支えられており、1796年にこのジュネーブの職人が、既存のベルとゼンマイに代わって振動する櫛歯を使用したことに始まります。
これによって、より変化に富み、新鮮で澄んだ音を楽しめるようになり、この画期的な技術はメカニカル・ミュージックの歴史の源になっています。
波乱に満ちた時代にもかかわらず、ジュネーブのオルゴール職人たちの知識は、一部の時計職人によって受け継がれていきます。ナポレオン戦争によってヨーロッパが分断されると仕事が不足し、このためサンクロアの村を去ってジュネーブで働いていた人々は、故郷に戻って生活のために再び、土地を耕すようになりますが、職人の仕事を捨てることはありませんでした。
やがて、この計り知れない価値のある職人のノウハウによって、サンクロア地方はオルゴールの発祥の地となります。
当時、この村の人口はわずか三千人ほどでしたが、人々は皆この山間の土地での農耕だけで生活することは不可能であると知っていたのです。
1808年にサンクロアに時計製造会社が設立されると、街の優れた時計職人がやってくるようになります。
彼らは、山間農業と職人仕事を兼業し、その一方で村の住民は職人たちの豊かな知識を吸収していきます。こうして、次第に繊細で精密な時計とオルゴールが生産されるようになり、数年後にはサンクロアは、ジュネーブの大手メーカーに匹敵する水準を誇るようになっていったのです。
オルゴールの技術の進歩とサンクロアの発展(1814〜1865)
徐々に、オルゴール職人の技術が時計職人の技術から分離していきました・・・
1814年、
フランソア・ルクルトがオルゴールの進化に決定的な役割を果たします。
ジュウ渓谷で出身でジュネーブで働いていたこの熟練時計職人は、個別の櫛歯に代わって、ひとつの鋼鉄の塊から切り抜いたコーム(振動板)を開発します。
これにより、それまでは個別に取り付けられていた櫛歯が、単一の部品となって、今日知られているようなコームが誕生し、オルゴールの音がより鮮明で力強く、魅力的になりました。
こうしてフランソア・ルクルトは、深い響きのあるオルゴールの音を実現させたのです。
この革新的な技術はたちまち広まり、オルゴールの技術はさらに進化を続けます。そして徐々に、オルゴール職人の技術が時計職人の技術から分離していき、オルゴールの製作は独立した分野となります。
1825年になると、サンクロア地方ではシリンダーの製作が強化され、樹脂をシリンダーに満たすことにより、ピンの固定状態が改良され、音の響きがさらに向上しました。1830年代初頭には、オルゴールの部品全部がサンクロアで製作されるようになります。
このジュラ地方の村は、生まれたばかりのオルゴール産業の中心地となり、サンクロアで製作された部品がフランスやロシア、インドに輸出され、外国にスイス部品の評判が広まります。1865年、シャルル・リュージュがオルゴール入りポケットウォッチを製作するためにサンクロアに定住したころ、そこは世界に向かって開かれた村となっていたのです。
博覧会の時代とマニュファクチュールの出現(1866〜1895)
サンクロアでは、男性は切削や穿孔、調律に従事しました・・・
19世紀も残り三分の一の頃になると、オルゴール産業はかつてないほどの発展を遂げ、サンクロアで製作される部品は、 国境を越えた進出を果たします。
オルゴール製作者は、当時開催された大規模な展示会に出店して外国での認知度を高めて いきます。1867年には、サンクロアの13名の製造業者がパリ万国博覧会に参加しました。
サンクロアのオルゴールは、フィラデルフィア万国博覧会(1876年)やアントワープ万国博覧会(1885年)にも出品されました。
これらの製造業者たちは、博覧会出店のための移動にかかる多額の費用にもかかわらず進出を続け、30名ほどがサンクロア地方で 確固たる地位を築き上げます。時計職人の時代から労働者の時代へと移り変わり、自宅に設けられた仕事場の代わりにマニファクチュール のアトリエが登場し、サンクロアでは、男性は切削や穿孔、調律、女性はピン打ちや確認調整といった仕事に従事するようになります。
産業化の時代に入っても、職人のノウハウの重要性は以前として高く、例えば編曲を行うアレンジャーの役割はかつてないほど重要と なりました。アレンジャーは、ヨハン・シュトラウスやクロード・ドビュッシー、ギュスタブ・フォレなど同時代の作曲家から絶えず
インスピレーションを受け、新しい曲が作られるたびに、アレンジャーが優れた才能を発揮して、音楽作品をオルゴールのシリンダーに 取り入れていきました。マニュファクチュールにとって、アレンジャーの傑出した能力が不可欠となったのです。
そして、1893年に鉄道が開通し、さらに2年後に電気が敷設されると、サンクロアはオルゴール産業において欠くことのできない 拠点となりました。
オルゴールの激動の世紀(20世紀)
しかし、贅沢な機械仕掛けのオブジェに対する情熱は決して失われていませんでした・・・。
ベル・エポック(美しき時代)には、オルゴールのライバルとして蓄音機が登場します。新世紀におけるこの戦いに直面した
サンクロアのオルゴール関係者は、生産の方向転換を行います。すなわち、大型のオルゴールとカーテルを製作する一方で、
主に子供用玩具に用いられる小型ムーブメントを生産することになってのです。
こうして、メカニカル・ミュージックの歴史が二分されることになりました。
第一次世界大戦が勃発すると、大型オルゴールと小型ムーブメントは大きな打撃をうけ、多くのマニュファクチュールが厳しい
時代に耐えられず、閉鎖されていきました。数年後には、小型オルゴールが復活の兆しを見せますが、1929年の世界恐慌によって
その勢いも断ち切られてしまいます。1945年頃になると、小型オルゴールにとってまさに激動の時代が始まり、それは40年近く続く
ことになります。特に、アメリカからの注文が激増しますが、製造業者の数は減り、一部は合併し、残りは消えていきました。
1980年代の半ばになると、最後の小型ムーブメント製造業者は、アジア諸国の競争相手に市場を明け渡し、これらのライバル企業が
その後さらに成長していきます。この頃からサンクロアでは、オルゴール製作のノウハウを最高級ムーブメントの製造に注ぎ込む
ようになります。
レコードやCD、そしてMP3の時代において、古い時代の象徴であるオルゴールがすぐに受け入れられたわけではありません。
しかし、贅沢な機械仕掛けのオブジェに対する情熱は決して失われていませんでした。やがて現代的なデザインによる製品が創作される
ようになって、新たな若々しさが加わり、高級ムーブメントを備えたオルゴールが装飾用のオブジェとして蘇ったのです。
19世紀における音楽:社会的な側面をもつ芸術
あらゆる芸術の中でも、音楽には最も多くの人々を引き付ける力があるといえるでしょう・・・。
あらゆる芸術の中でも、音楽には最も多くの人々を引き付ける力があるといえるでしょう。音楽は、目には見えない形で人の魂に
触れ、全人類に共通の感情を表現します。田舎のお祭りは出会いの場であり、人々は伝統的な歌によってひとつの集団に属して
いることを確認したのです。また、宮廷では荘厳な音楽会や豪華なオペラが貴族の社交の場でした。
このように、15世紀以降のヨーロッパの音楽には2つの伝統が存在していました。すなわち、庶民が大衆音楽や民間の伝統音楽に合わせて
歌い踊る一方、貴族は、偉大な作曲家による芸術的な音楽、つまり書き記されることによって伝えられた伝統を楽しんでいたのです。
しかし、メカニカル・ミュージックの世紀になると、この二つに分かれた伝統に新たな進化が生じます。
この2つの音楽の世界がオルゴール職人によって一つになり、職人のアトリエで、伝統的な大作曲家の作品を採り入れたオルゴールが制作
されるようになります。こうして、もともとは芸術音楽を愛好するような階層ではなかった職人たちが、このような優れた音楽に触れる
ようになったのです。
そして偉大な作曲家もまた、この伝統の融合を推し進め、多くの作曲家が大衆的な旋律を自信の作品に採り入れました。
例えばヨハネス・ブラームスの「ハンガリー舞曲」は地方の名もない音楽家の曲を編曲したもので、大衆的な楽曲が芸術音楽の域に
まで高められています。
魅惑の対象としての鳥
ツグミやヨナキウグイス、アトリなどの鳥の鳴き声を聞きながら何時間も過ごすのでした・・・。
人々は、太古から鳥に魅せられてきました。18世紀半ばのヨーロッパやアジアの君主たちは、大きな鳥かごの中に、よく知られた メロディをさえずる鳥を飼っていました。宮廷の貴族がこれらの鳥に魅了されたのは、「セリオット」(鳥風琴)によって鳥に歌が教え
込まれていたためです。セリオットはシンギングバードの原型である機械式の道具で、歌のメロディを再現して本物の鳥に歌を覚えさせる ために用いられていました。
1780年、ピエール・ジャケ・ドローが、初のシンギングバードの機械式ムーメントと開発しました。スイスのラ・ショード・フォンに
住んでいたこの才能豊かなオートマタ製作者は、自分でも気がつかないうちに、後に一つの時代を画することになる品を発明していたのです。
1848年、ブレーズ・ボンタンがパリでシンギングバードの製作を始めます。音楽の愛好家であったボンタンは、その情熱によって何年も 前から機械式ムーブメントの改良に取り組んでいました。このヴォージュ地方出身の時計職人は、鳥の鳴き声を極めて忠実に再現するために、
毎日夜明けとともに起き出して、近くの森の中でツグミやヨナキウグイス、アトリなどの鳥の鳴き声を聞きながら何時間も過ごすのでした。 ボンタンは、その優れた聴覚と時計製造の豊かなノウハウによって、完璧に近いシンギングバード用ムーブメントを開発しました。
1867年に開催されたパリ万国博覧会では、ブレーズ・ボンタンのオートマタを本物の鳥の鳴き声と間違えた入場者もいたほどでした。
ブレーズ・ボンタンとシンギングバード
ブレーズ・ボンタンは、シンギングバードを、精巧に作られた鳥かごの中に入れるのが常でした・・・。
シンギングバードが入れられた煙草入れには、ナポレオン三世の刻印が刻まれています。ブレーズ・ボンタンのパリのアトリエでは、
シンギングバードは精巧の作られた鳥かごの中に入れられるのが常でしたが、ナポレオン三世の要望により、ボンタンはシンギングバード
のメカニズムを煙草入れに収まるようなものに変えました。こうして作られたユニークなこの嗅ぎ煙草入れは、戦場で素晴らしい功績を
挙げた将軍たちに贈られるようになったのです。
煙草入れに入ったシンギングバードと鳥かごに入ったシンギングバードは、ブレーズ・ボンタンに名声をもたらしました。
1881年に息子が跡を継いだ頃、アトリエは繁栄を謳歌していました。万国博覧会が大成功を収めたその時代において、
ボンタンのシンギングバードはフランス職人の芸の頂点のひとつになっていました。シンギング・バードの生みの親である
ボンタン社は数々の賞を獲得し、第一次世界大戦前夜には、その受賞数が40ほどに達していました。
ブレーズ・ボンタンの孫の時代になると、シンギングバードの愛好家の数は減りますが、彼らの要求はより厳しくなっていきました。
1950年代には、そうした愛好家たちの目にかなうメーカーとしては、パリのボンタン社とドイツのエシュレ社の2つだけになって
いました。
マミファクチュール・リュージュは、シンギングバード作りの芸術を永続させるために、ボンタン社(1960年)とエシュレ社(1970年)
を買収し、その事業を継承しました。以来、大胆なデザインのもと、鳥かごに入ったシンギングバードと煙草入れに入ったシンギングバードの
伝統は今も受け継がれています。
リュージュ:その使命
シャルル・リュージュは、ポケットウォッチを製作する時計職人になりました。
シャルル・リュージュは、1893年、サンクロアに近いビュットという小さな村に生まれました。
彼は錠前師だった父の鍛冶屋で育ち、早くから時計作りに熱中するようになりました。仕事場で多くの時間を過ごすうち
彼はポケットウォッチを製作する時計職人となりました。
熟練した時計職人であったシャルルは、同時に賢明な実業家でもありました。
彼は1865年にサンクロアに移りました。この地方に受け継がれていた時計作りのノウハウの中から最良のものを取り入れ
ながら、シャルルはポケットウォッチの製造を開始しました。
シャルルは時計のムーブメントにシリンダーと小型のコームを組み込むことに成功し、その先駆者となりました。
オートマタが付けられたものもあるそれらの見事な音楽時計は、瞬く間に時計の愛好家からの称賛を集める様になりました。
彼の作る作品は、組立てられるとすぐに買い取られていくため、購入者を見つける必要もほとんどないほどでした。
しかも、時計は単なる始まりにしか過ぎず、リュージュ家はますます人々に知られていくようになりました。
1866年、21歳の時、アルベール・リュージュはサンクロアにオルゴールの店を開きました。
シャルルの息子であるアルベールは、父から同じ実業家の血を受け継いでいました。
父親が開発したミュージカルムーブメントによって、自らのブランドでオルゴール業界に参入することができ、
アルベールは短期間にうちに家族経営のアトリエを、紛れもないちいさなオルゴールのマニュファクチュールの運命と
切り離せないものとなりました。
リュージュ:革新の哲学
オルゴール職人の優れたノウハウが総動員され、そして魔法が蘇ったのです。
19世紀末、オルゴールはその全盛期を迎えましたが、リュージュの名前はその成功とは無縁ではありません。
メカニカル・ミュージック業界で先頭を行くリュージュは、常に進んだアイデアを持ち続けてきました。
当時、サンクロアにあったメーカーのほとんどは、オルゴールを単なるオブジェと見なしていました。
リュージュにおいては、想像力の限界を決めるのは、お客様からの要望であり、ミュージカル・ボックスは、コンパクトや
ライターといった思いもよらないオブジェの中に組み入れられます。
サンクロアにあるマニュファクチュール・リュージュの入った建物は、1929年に建設されたものです。
忽然として革新という伝統を古くから継承するリュージュは、自らの遺産を捨てることなく、大恐慌という荒波を
乗り切ります。お客様のどんな思いがけない要求にも応えるオブジェを創作しながら、リュージュは時代を乗り越え
ていきます。
ギド・リュージュ:先見の明をもつ者が見せる魔法
どこか不思議な、魔法のようなひらめき・・・。
1904年にサンクロアに生まれたギド・リュージュは、マニュファクチュールの魂を創り上げました。
メカニカル・ミュージックの魔術的な魅力が今もなお損なわれていないとしたら、それは彼の先見の明と、エネルギーに 溢れる詩的な感性のおかげでしょう。彼は20世紀において、オルゴール本来の名声を取り戻す契機を作りました。
疲れる間もなく、ギドは顧客をたずねて世界中を旅して回りました。
米国、カナダ、メキシコ、そしてノルウェーや キッーバまで彼は足を運びました。サンクロアを離れると、もはや数ヶ月間、家に戻ることはできない旅でした。
顧客との多くのやり取りや直接の訪問を通して、彼は顧客の要望を察知する確かな感性を身につけていきました。 また、創造のためのインスピレーションを得る機会にも事欠きませんでした。
天才肌の発明家であったギドは、新しい作品のほとんどを考案しました。旅行と旅行の合間を縫って、彼は多くの デッサンを描き、古いオルゴールを分解し、新しい素材の開発に取り組みました。洗練さの頂点を極めるサブライム・ハーモニー
ムーブメントは、ギドの熱意によって蘇りました。
彼はシンギングバードの復活に力を注ぎ、ボンタン社とエシュレ社の買収に 着手しました。彼の創作するひとつひとつの作品には、どこか不思議な、魔法のようなひらめきが感じられます。夢が華々しい
輝きを放ち、それがオルゴールの夢の世界と一体となってから何年が過ぎても、いつまでも人々に同じ喜びをもたらすのです。
カンダハール、または多様化の時代
景気回復後、リュージュのもつノウハウは完全なまま保たれ、革新の伝統も永続していたのでした。
1929年10月24日。
ウォール街の株価が暴落。世界中が経済恐慌に陥り、オルゴール業界もまた大きな打撃を受けます。
先見の明のある知略に富んだギド・リュージュを先頭に、マニュファクチュールはこの困難な時期に立ち向かいます。
スキービンディング時代の始まりです。
サンクロアで生まれ育ったギドは、子供の頃から立派なスキーヤーでした。
既に1927年から、彼は自分用のスキービンディングの試作品を作っていました。自らが参加するいくつものスキー大会において、 彼は、きわめて過酷な条件の下でそれらのテストをすることができました。
自分の開発品が優れたものであると確信した彼は、 マニュファクチュール・リュージュのノウハウを活用して、スキービンディング「カンダハール」の製造を開始しました。
1931年に最初の製品が販売され、瞬く間に成功を収めました。 スキービンディング「カンダハール」は、ハイレベルのスキーヤーたちの間で信頼を集めました。カンダハールのおかげで、
マニュファクチュール・リュージュは世界恐慌という厳しい時代を乗り越えることができたのです。
景気が回復してみると、リュージュのもつノウハウは完全なまま保たれ、革新の伝統も永続していたのでした。こうしてリュージュは、 オルゴール芸術を追求するという本来の道へと戻ったのです。
エレガントに未来を奏でるリュージュ
夢、美しさ、あるいは洗練されたスタイルが存在しない現代社会など考えられるでしょうか・・
新しい千年紀を迎えた今日、マニュファクチュール・リュージュは、文字通りメカニカル・ミュージックにおける達人と呼べる 唯一のブランドでしょう。
伝統を受け継ぐこと。人々の期待を先取りすること。魔法をかけ続けること。これこそが、オルゴールという稀に見る芸術が、 大変な努力の末にようやく確立した地位を守るための重要な鍵なのです。
夢、美しさ、あるいは洗練されたスタイルが存在しない現在世界など考えられるでしょうか・・。
オルゴール、シンギングバード、ポケットウォッチ・・・。 どれも感動を覚えずにはいられないオブジェばかりです。リュージュはこれを活動の原点としたのです。
マニュファクチュールの伝統のすべてが、メカニカル・ミュージックの持つ現代性とともに比類ないこれらの 作品の中に表現されています。 マニュファクチュール・リュージュは、新たな第三千年紀に挑む準備ができています。
というのも、革新だけが 高級製品のしるしではないからです。1世紀半にわたる伝統は、作品に魂を与えます。 限られた数の認定販売店においてのみお買い求めいただける、他にはないオブジェです。
REUGE(リュージュ)の名前は今日、輝く銀色で記されます。リュージュとの出会い、それはメカニカル・ミュージックが奏でる 魔法の世界への旅です。本物の追求、先見の明、そして魔法、この3つの言葉に要約される、卓越性、革新性、そして魅惑の世界です。
メカニカル・ミュージックはひとつの芸術に高められました。 マニュファクチュール・リュージュはまさに、この芸術とともに21世紀へと突入したのです。
創造性と技術と革新
リュージュは、技術革新はもちろん、デザイン革新をも成し遂げました・・・。
夢を実現するためにあらゆる手を尽くすマニュファクチュールの、伝統と革新への熱い想いが、技術革新はもちろん、デザイン革新 をも成し遂げました。
メカニカル・ミュージカルの世界に、新しい素材や独創的技術を採り入れました。
その成果が、新たな境地を切り開いた新しい作品の数々です。
「ラウンジ」と「スタディオ」シリーズは、オルゴールの概念にこれまで とは違った意味を与えています。 新しいコレクションに見られる卓越性は、最も高貴な素材と最先端の加工技術によるものです。 ムーブメントの構成部品もまた、最先端技術を用いて加工されています。 驚くほど正確な加工と完璧な仕上げを施されたムーブメントは、ボックスの中に収めておくのが惜しいといわんばかりに その素晴らしさを覗わせてくれるのです。
稀少な木材と極上の素材を組み合わせた、リュージュの高い技術力とあふれる創造性を 示す逸品ばかりです。 時代の先端をいくマニュファクチュールは、常に先駆的役割を果たしてきました。そして、顧客の要望を先取りするため、まったく
新しい製品企画に多大な創造力を注いできました。
時間とメカニカル・ミュージックの出会いから生まれる革新的なオブジェ。
このように、リュージュは独自のノウハウとスイス時計技術の伝統を結びつけ、比類ない作品を生み出しているのです。
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